ご報告: 生まれました
5月下旬に、少し早めの36週で2700グラムの女の子を出産しました。
7ヶ月で前置胎盤と診断され、通っていた総合病院から、さらに大きい周産期医療センターに転院して、帝王切開での出産になりましたが、無事に出てきてくれました。
あのいびつだった4BBの卵が、今こんなふうに目の前で人間の形をして動いていることに、不思議な気持ちになります。毎日、飽きることなく寝顔を眺めています。
以上、簡単ですがご報告でした。
不妊治療を振り返る その2 仕事のこと
8w2d、本日2本目のエントリ。
今日は産科の2回目の受診日だった。京野の紹介状を持って行き、出産予定日は6月中旬に確定。
初診でもお世話になった恐ろしく愛想のない担当医が、エコーを操作しながら、
「はい元気に心臓動いてますね。たぶんこれが足で、これが手でしょう。ここが心臓ね。赤ちゃんはじっとしてるね。爆睡中かな。おーい、お母さんに動いて見せてごらん?…うん、動かないね。マイペースな子ですね。ピンピン動いてるところが見られる時と、こんな風にじっとしてるときがあります。あ、今少し動いたかな」
とやたらと饒舌に赤ちゃんの様子を解説してくれて、赤ちゃんよりも先生のおしゃべりにちょっと度肝を抜かれた。
意外と子ども好き? ツンデレ的な?(失礼)先生の素敵な一面が見られてほくほく。
頭臀長は15ミリほどらしく、「少し小さいな、ARTだしな」という先生のつぶやきが聞こえた。エコーが終わり、写真をもらって終了。「これだけ心臓がしっかり動いていればまあいいでしょう」とのこと。ちなみにエコーの時に、初めて実際の心音も聞かせてもらったけど、驚きすぎて音自体はよく覚えてない。ただ、本当に心臓が動いてるんだわねーと今更ながら実感した。
病院帰りに母子手帳をもらいに行ってきた。じわじわと、妊婦感が増してくる。このまま無事に出産までこぎつけることを、毎日毎日ただ祈るばかり。
さて、ここまでの不妊治療を振り返って、仕事について考えたことを整理してみたい。
先日、仕事でお世話になった大先輩の3年目の命日を前に、同僚や先輩とお墓参りをした。先輩が亡くなって3年。その3年が、わたしの不妊治療の3年でもあり、仕事の状況が大きく変わった3年でもあった。
3年前のわたしは、結婚して一息ついて、次は子どもだなと何の疑問もなく思っていた。年齢的に余裕はなかったし、当時は今の仕事にあまり思い入れもなかった上に、上司や職場は今よりも過酷で、立て続けに人が辞めていっている状況だった。
働くことはずっと好きで、一生働くつもりではいたものの、今の会社にずっといるかどうかはわからないと思っていた。さっさと産休育休をとってその状態から逃げるか、もしくは転職でもしようか…と漠然と考えていた。実は今の仕事に全く関係のない資格を取ろうかと急に思い立ち、一時期勉強したりもしていた。
つまり33から34になる頃、わたしのキャリアイメージはとてもふわふわとして曖昧なままだった。
そのままの状態で不妊治療を開始したものの、なかなか授かる気配はない。1年経って35になった頃、これは一生子どもができないという可能性も考えた方がいい、と思い始めた。そうなって初めて、わたしはこの先仕事をどうしていくんだろう、と改めて考え出した。
思い返せば、20代の時には結婚も出産もしないかもしれないと思っていたし、一人でもそれなりに楽しく生きていけるような仕事を模索しようという気概があった気がする。前向きに転職を重ねたし、貪欲に学びもした。それが、結婚したとたんに「仕事がしんどければ産休をとればいい」と逃げの思考になっていたことに気づいた。出産しようがしまいが、働き続けるつもりであれば真剣に仕事に向き合え、と自分に課したのが、不妊治療2年目の2014年。
それまでのわたしは、どこかで余力を残すような仕事の仕方をしていた。100必要なら100の成果を納めればよくて、120を目指すことはなかったし、それで十分だった。でもどこかで、自分は力を出し惜しんでいる、全力を出せないのは致命的な弱みだ、と感じてもいた。
2014年の年始のブログを読み返すと、抱負として「謙虚に仕事する。多少文句は言っても、真摯に仕事に向き合う。力をだし惜しまない」と綴っている。そして、その年末にはその抱負は達成された、と振り返っている。
この年の仕事を思い返すと、年明けから3月頃まではあるプロジェクトの完成度を上げるために後輩ちゃんと怒涛のプロジェクト進行。3月からゴールデンウイークまでは、手持ちで最大のプロジェクトが難航し、他人の担当領域に思い切って首を突っ込んで大幅な軌道修正をかける、という荒技を発動した。それまで人の仕事に口を出さなかったわたしが、何かを吹っ切って100から120を目指した瞬間かもしれない。夏から年末までは、その大規模プロジェクトでの地味な山場が続いた。1つ1つはものすごく些末な、だけど積み上げると全体のクオリティを決めるようなテーマについて、地道に潰していく日々。その合間に、年明けに後輩ちゃんと仕上げたプロジェクトが全社表彰されたり、昇格したりと、思いがけず評価もされた1年だった。
いま改めて思い返すと、この本厄の1年間に仕事に全力投球したことは、わたしにとって大きな転換点だったと思う。いくつかの象徴的な仕事をしたことで、社内でのわたしの立ち位置、期待されることが明確になった。今年に入って、最大のプロジェクトを無事終えたことで、その立ち位置はさらに磐石になったかもしれない。
3年前に亡くなった先輩が築いた専門領域で、それを受け継ぎ発展させていくことが、わたしがこの会社でやるべきことだと今ははっきり思えている。
蛇足だけどこの3年で3回も昇格できたのも、今になって思えば良かったんだろう。出産手当金や育児休業給付金など、各種手当ての基礎額が上がり、復帰後に時短勤務になったとしてもある程度の収入を確保できるだけの基礎給与がある。お金は、不妊治療をするにも出産・育児をするにも本当に大事なものだ。
振り返って嬉しいのは、たとえ子どもができない人生だったとしても、この3年間の仕事が自分にとって本当に必要だったと思えること。わたしは趣味らしい趣味もなく、仕事が趣味みたいなもので、だとすると子どもがいてもいなくても、仕事に打ち込んだ時間というのは今後のキャリアにとってとても大きな意味を持つ。
もちろん、早く産めるならそれにこしたことはないと思う。こういう納得の仕方は、自分のために後付けでするものなのかもしれない。それでも、わたしにとっては3年待つ意味が確かにあった、と思うのは間違いじゃない。3年前に産めていればそれはそれで良かった。でも今妊娠できたことにも、意味はある。
とりとめもなくなってきたので、このあたりでこのブログは一度おしまい、というか無期限のお休みとしたい。もしもこの妊娠が出産に至らなかったら、または、上手くいって少し先に2人目の凍結卵を迎えに行くことになったら、その時はまたこちらで再開するかもしれない。
最後に、こんなひとりよがりブログを読んでくださった皆様、コメントをくださった方々に、心からお礼を申し上げます。
赤ちゃんを待っている全ての方が、困難な中でも自分らしさを失わずに生き生きといられること、ご夫婦の納得のいく不妊治療が受けられることを願っています。
不妊治療を振り返る その1 クリニックのこと
※培養士について追記しました。(2015年11月11日)
8w2d。8週目に突入した途端にわかに体調が優れず、ほぼ寝たきりの土日を過ごした。とはいえ吐くには至らず、空えずきとげっぷと胃痛を抱えながらも、ベッドの上でゴロゴロとマンガを読む余裕はあった。きっとつわりは軽い方なんだな、この程度なら。
今回、クリニックを卒業したところで、ひととおりこれまでの不妊治療を振り返っておこうと思う。
2012年11月に、初めて一般不妊治療を行っている婦人科を受診。ちょうど3年前になる。銀座にある個人病院で、先生が優しくて穏やかでとても素敵な方だった。ここでタイミング療法を約半年。
この時、はじめから精液検査をしていれば、半年は治療期間が短縮できたかも、というのは後になって思うこと。当時は、4歳年下のオットに原因があるかもなんて、これっぽっちも思っていなかった。
約半年後にこのブログを始めて、それとほぼ同時に男性不妊が発覚。オットが意外とダメージを受けていないことに驚きつつも救われ、原因がわかれば解決はできると前向きに考えていた。自分が原因でなかったことにホッとする気持ちもあった。
選択肢が一気に顕微授精一択に絞られたことで、迷いはなかった。もともと、自然妊娠へのこだわりも特になかったし、生殖医療技術が進歩した時代に生まれ、望む治療が受けられるだけの資金があることもありがたいと思った。
病院選びを経て、2013年6月からの2年5ヶ月、京野アートクリニック高輪にお世話になった。
このクリニックを選んだのは、泌尿器科があり男性不妊治療に力を入れていること、予約制であることを重視した結果だった。
1つ目に関しては、オットには精索静脈瘤などのはっきりした原因は見つからず、結局男性不妊の治療は特に行わなかった。
2つ目については、わたし自身がフルタイムで働きながら通院するにはマストの要件だったけども、途中からえらくクリニックが混みだして、予約制とはいえ3時間拘束が当たり前になっていた。
わたしが恵まれていたのは、仕事が完全裁量労働制で勤務時間をかなり自由にコントロールできたこと。クリニックの予約はできる限り朝イチの8時半か9時にとり、午後からは普通に出社して仕事をしたり、移植が午後なら午後の数時間だけ会社を抜けて、夕方帰社することもできた。
それに、このクリニックでは誘発が自己注射だったことも通院回数による仕事への影響を抑えられた要因だった。まさか自分が自分の腹に注射できるようになるとは…治療前には考えられなかったスキルがついた・笑(大して人生の役には立たないけど)
治療のために仕事を辞めざるを得ない人も大勢いると思うと、それなりに忙しく働きながら治療を続けられたのは何てラッキーだったんだと改めて思う。
ほかに、京野アートの良かった点を挙げるなら、
1. 患者の意見を病院運営に取り入れる姿勢があること
2. スタッフ、特に看護師さんの対応が優れていると感じること
3. 待合ホールをはじめフロアが明るくゆったりしていて待ち時間のストレスが少ないこと
だろうか。
1.については、わたしの通院中に複数回、クリニックのサービスについてのアンケートが実施されていた。うろ覚えだが、そのうち何回かは、外部機関による監査のような位置づけのアンケートだったように記憶している。経営者が、組織を透明性高く運営しようという意識を持っていることが感じられて好感が持てた。
想像するに実際、患者数が増えたことによって一時期クレームやトラブルが増えた時期があったのかもしれない。それに向き合って改善しようという姿勢を持っていることに、病院の健全さを感じた。
そういえば最近になって、問診室の外にその日の担当医のネームプレートが掛けられるようになった。あんなのも、患者さんの意見を取り入れた結果かもしれない。
2.については1.にも関係するのだけど、基本的にスタッフ教育がとても行き届いていると感じることが多かった。業務手順、患者への配慮、してはいけないことや、言ってはいけないことなど、きちんとマニュアル化されてしかもそれが徹底されているように感じる。
特に、看護師さんのホスピタリティには通院中何度も癒された。採卵や移植の時には十分に気遣っていただいたし、相当忙しいだろうに笑顔を絶やさない方も多かった。いつだったか採卵待ちのオペ室でおしゃべり中にチラ聞きしたところ、皆さんけっこうな長時間労働だとか。わたしが言うのもなんだけど、身体を大事にしてほしいなぁと思う。
個人的にはクリニックへの通院が苦にならなかったのは、このスタッフさんたちによるところが大きいと思っている。不妊治療というのは高額の自費を投じて受ける医療サービスだ。ただでさえ治療が上手くいかない時は嫌な気持ちになるものだから、その上スタッフの対応に嫌な思いをさせられては割に合わない。
3.のフロアの過ごしやすさもそういう意味では通院のストレスを和らげるのに一役かっていた。
もしこの妊娠がうまくいって出産にこぎつけたら、もしくはあえなく途中でリタイアとなったら、残りの2つの胚盤胞をいつか迎えに行けるだろうか、と思ったりしている。その時にも、今のままの、もしくはより進化したサービスが受けられるクリニックであってほしいなと願う。
さて、クリニックについての振り返りだけども、肝心の治療経過についてはどうだったか。
初回の顕微授精では初期胚を凍結、その後は基本的に採卵のたびに、新鮮胚を移植し残りを胚盤胞で凍結、という形を取ってきた。
このやり方ですぐに妊娠する人ももちろんたくさんいるのだろうけど、少なくともわたしの場合、新鮮胚移植では一度も着床することはなかった。1年弱経った2014年の春に凍結胚盤胞移植で初めて着床反応があった後は、もう凍結胚盤胞だけに絞って移植していく戦略にすればよかったと、これも今振り返って思うこと。
ただ、何が正しかったのかは先生たちにも、もちろんわたしにもわからないし、後から思えばというのはいくらでも言えるもので、そうしなかった自分や、そういう方針を採らなかったクリニックを責める気持ちはない。
男性不妊だから顕微授精さえすれば簡単に妊娠する、と当初思っていたほど甘くはなかったということ。それはたぶん、わたしの卵子の質もあまり良くなかったということで、その可能性をもっと早くに直視して、卵の質を上げることを意識した治療を少しでも模索していれば、と思ったりもする。
京野アートでの治療は、基本的には患者に合わせて変えてくれる方針のようだし、実際わたしが経験した採卵はアンタゴニストからショートからマイルドまで、誘発方法も薬も毎回変えて、ベストなやり方を探ってくれてはいた。移植については自然周期よりホルモン補充周期を薦められたけど、それも患者さんによるらしい。ただ、一通り採卵も移植もやり尽くしてみると、あとは数を打つしかないというのが苦しいところだった。
もし今回の妊娠反応がなければ転院しようと考えていたのは、京野とはまた違う方向からのアプローチが必要なのかもしれないと思ったから。
わたしの基本的なスタンスは、専門家である医師の言うことを信じて、素人が下手な考えを持ち込まない、というもの。それは今も変わっていないし、どんな世界でも目の前のプロフェッショナルを一番信頼すべきと思っている。
とはいえ、不妊治療は病院によって方針もさまざまで、1つの病院で一通りやり尽くしたと感じたら、転院するのが良いのだと思う。わたしの場合も、もしかしたらもっと早くに転院するという選択肢もあったのだろうけど、仕事のことを考えると転院先を決めてその病院のシステムと通院に慣れるまでが重く感じられ、なかなか腰を上げられなかった。
主治医制をとっているかどうかも病院選びのポイントの1つだけど、ここは難しいところだと思う。京野アートクリニック高輪は、主治医制ではなかった。正直に言って、先生方のおっしゃることは少しずつ違うな、と感じることがあったし、前回の診察で決めたことを次の診察でまた聞かれる、ということは少なからずあった。これに不信感を感じる人はいるのだろうなと思う。
一方で、主治医制または先生一人の個人クリニックは、待ち時間か長かったり、予約が取りにくかったりという難点もあることが想像される。わたしが転院しようと考えていたクリニックは先生一人で、その点が不安だったものの、年中無休で待ち時間もさほど長くないと聞いて転院を決めたのだった。こういうことも考慮に入れながら自分に合う病院を探すのは至難の技だと思う。
最後に費用のこと。実は厳密に調べて比較したわけではないので、京野アートの費用が高かったのかどうかはっきりはわからない。わたしが行った治療は、
・子宮鏡検査1回
・スクリーニング検査3回(年1回)
・ERA検査1回
・子宮内膜日付診1回
・採卵7回
・顕微授精7回
・新鮮胚移植3回(初期胚3・胚盤胞1※二段階移植1)
・凍結胚移植6回(初期胚3・胚盤胞3)
これで、治療総額は517万超…Σ(゚д゚lll)
始めから顕微授精で、高額のERA検査なんぞもやったから、たぶん2年半足らずで使った金額としてはかなり高い方なんではないかと思う。が、オットもわたしも、この数年は治療に資金を投入するのだとハラを括っていたし、振り返ってその金額に慄くものの、無駄遣いしたとは思わない(ようにしている)。
またたとえ治療で結果が出なかったとしても、投じたお金がこれからの生殖医療の発展に少しでも役立てばいいと思う(ようにしている)。というか、そう思わないとやってられない。なので、クリニックでは採卵のたびに、使えなかった卵や受精卵の研究目的の利用には同意書を提出していた。
たまたま治療に対する夫婦の価値観がある程度一致して、しかもそれなりの資金があったから実現できたことで、ここまで治療を続けられたこと自体とても恵まれたことだったと思う。ちなみに治療費は全て、双方の独身時代の貯金ではなく、2人の収入を合算した家計から拠出した。
治療にいくらつぎ込むのか、と考えるのは、子どもの値段はいくらか、と考えることに似てとても苦しい。だけど、当たり前だけどわたしたちは、500万出して子どもを買ったわけではない。
金額や費やした年月に関係なく、自分たちはできることをただやっただけ、と思えればいいのかもしれない。
その2につづく。
※2015年11月11日追記
病院選びの参考にされる方が少なからずいるようなので、追記しておく。
顕微授精を行う際に、培養士の技術や培養環境が重要という話をよく聞く。実際に、生殖医療に関わる看護師の友人に聞いたところ、同じ施設内でもどの培養士が担当するかで妊娠成績は変わってくるという。
わたし自身は、通っていたクリニックの培養技術について何かを語れるほど専門知識もないし、他院と比べることもできない。
が、以前このブログに非公開でいただいたコメントの中には、このクリニックの後、KLC系列の某クリニックに転院されて妊娠した方が、京野アートに比べてホルモン値の管理の厳しさと培養技術の高さを感じる、と書いていらっしゃるものがあった。
事実ベースでわたしが書けるとすると、わたしが2年半通ってお会いしたこのクリニックの培養士さんは、平均年齢でいうとわりと若い印象だった。中には20代か30そこそこと思しき人も複数いたように思う。年齢と培養士としての技術は必ずしも比例はしないと思うけども、ご参考までに。
BT35日目 まさかの繰上げ卒業
【体外26周期目・移植周期D59】未計測
7w5d。クリニックで経過確認したところ、なんと今日で終わりでいいですよ、と言われた。不意打ち卒業…!
本来なら、これから通う病院を次週までに決めてきて、というタイミングだったぽいのだが…
先生「ホルモン値も十分出てますので、薬は今日で終了しましょう。次の病院は決まってますか?」
オマル「あの実は、問い合わせたら早く初診に来てと言われたので、既に初診は済んでまして」
先生「あ、そうですか。次回はいつ?」
オマル「来週です」
先生「じゃあもう今日紹介状出しますね。こちらは今日まででいいですよ」
オマル「えっそうなんですか! 前回、あと2回と聞いたのですが」
先生「ええ、でももう来週行かれるんですよね。7週5日ですし、問題ないですよ」
というわけで、急遽卒業となった。わあ!! 想定外。
肝心のお腹の中の様子はというと、CRL12.3ミリ、心拍169bpmで、正常範囲とのこと。胎嚢サイズはもう測られなかった。
とりあえず2回続けて心拍が確認できて、大きさも前回からそれなりに育っているようでホッとしたけど、毎回内診台に上がる緊張感ときたらハンパない。
そして先生からは診察終わり際に思い出したように、「あ、少し子宮内に出血があるようですので、安静めに過ごしてくださいね。歩きすぎたりとかしないように」と言われた。やはりか! ここ1週間茶オリや出血は見てないけど、先週見たエコー画像の黒っぽいのはやっぱり出血だった模様。これが絨毛膜下血腫ってやつなのかな。あぁ、この心臓に悪い日々はいつまで続くのか…
それにしても、予定外の卒業となったため何だか少し後ろ髪を引かれる思いでクリニックを出た。最後に院長先生に挨拶したかったなとか、看護師さんやスタッフさんにもお礼を言いたかったなとか、いろいろ思うことがあったけども、他の患者さんの目もあるので普通に何事もなかったかのように帰るしかなく。
会計時に、紹介状とアンケートを渡された。アンケートは、この後の経過をしばらく経ってからクリニックに報告するもの。うまく出産までたどり着いたら、そう書いて送れるといいと思うのだが。先が遠すぎてまだ全くイメージできない…
さて、クリニックを卒業したらしようと決めていたのが、親への報告。
実は親よりも先に、先週の心拍確認後、直属の上司には既に報告を済ませていた。というのも、そもそも(どこの職場もそうであるように)人手不足なところに加え、2月でベテランの同僚が一人退職する予定と聞いたから。わたしは順調に行けば来年のゴールデンウイーク明けくらいに産前休暇に入れるはずで、どうせなら貯まりに貯まった有給をくっつけてできれば4月末で出社を終えたいと妄想していた。
2月と4月に連続して人が抜けるとなると、それはもう大騒ぎして今から人を手当てしなきゃならないレベルの話なのだ、うちの部署は特に。だから、打ち明けた時には上司も、心から喜んではくれつつしかし、その後相当顔つきが厳しくなっていた。そりゃそうだよね。
というわけで、期せずして肉親より先に他人にカミングアウトするという事態になり、そういや今育休中の同僚ちゃんも、親より上司に先に話したと言ってたなーと思い出した。その時はナニソレ、アハハと笑ってたのに、同じハメに陥るわたし。
というわけで、まだまだ全く安心できない局面ではあるものの、とりあえず結婚から3年半首を長くして、でも知らんぷりして待ってくれている双方の親に、第一報を入れることにした。
わたしは実母が亡くなっているので父に。オットは実父が亡くなっているので母に。
親からの返信は短かったけども、喜んでくれているようだった。陽性が出てからずっとバタバタで妊娠したことを噛み締めてる暇もなかったけど、父のメールを見て初めて、ああ妊娠したんだなぁ…と今さらの感慨に襲われた。
本日の会計
¥7,560
クリニック累計
¥5,171,030
※ブログはあとちょこっとだけ続く
BT29日目 心拍確認
【体外26周期目・移植周期D53】未計測
6w6d。緊張の心拍確認の日。
無事に心拍が見えたーー。・゜・(ノД`)・゜・。
朝から歯磨きでオエッとなったりしたものの、ここ2,3日に比べてつわりをほとんど感じないことに、もやもやしながら電車に乗り。品川に近づくにつれてようやく何だか気持ち悪いな…となったけど、それにしてもだいぶ軽い。つわりはキツければキツいで辛いし、軽くなればなったで不安。まったく、一喜一憂し過ぎだと思いつつ、これはもう如何ともしがたい。
軽い生理痛みたいなお腹のだるさを感じながら採血、内診。内診台で待つ間は、もしかしたら通院歴の中で一番緊張したかもしれかい。
胎嚢が少しまるく大きくなり、その中に明らかにヒトの頭の形が見えた! 雪だるまみたいな、タコみたいな…
先生が「見えます? ここ」と指した部分が、確かに点滅している。
胎嚢 30.3ミリ
CRL(頭臀長) 7.99ミリ
心拍 138bpm
気になったのは、先生が胎嚢の外側の部分のサイズを測っていたこと。聞かなかったけど、後でエコー写真を見ると、少し黒っぽく映っているところがある。これが胎嚢の外に血が溜まってる、ってやつかもしれない。気にしてもしょうがないけど。
診察は「順調ですね」とだけ言われてソッコー終了だった。ホルモン値をチラ見したところ、もうhcgは計測していないみたい。E2とP4だけのようだけど、詳しい数字は見えなかった。ホルモン補充してるので、ホルモン値も大丈夫ですよとのこと。
順調にいけば、来週、再来週ともう2回通院して、問題なければ卒業となるらしい。
とはいえ、心拍確認後の流産も十分あり得る。看護師さんにまたエストラーナとルティナスを出してもらいながら聞いてみた。
「もしですよ、万が一この後流産みたいなことになったら、その場合の処置、例えば手術みたいなことは、こちらでお願いできるんでしょうか」
看護師さんはびっくりした顔で「そんな…!」と小声で叫んでたけど、あ、万が一のために聞いておきたくて、と言ったら「大丈夫ですよ」と言ってくれた。
そかそか。では、8週までは何かあったらこちらのクリニックをやはり頼ることにしよう、と決める。もちろんそんなことにならないことを祈るけど。 今日はなぜか、昼も夜もほとんどつわりを感じなくて、久しぶりに肉を食べることができた。体調がいいのは嬉しいけど、不安でもある、このアンビバレントな感じがあとどのくらい続くのか…
このブログは、無事にクリニックを卒業できたらそこでおしまいとしたい。うまくいけばあと2週間。どうかこのまま何事もなく卒業できますように。
本日の会計
¥13,920
クリニック累計
¥5,163,470
BT27日目 ついに嘔吐
【体外26周期目・移植周期D51】未計測
6週4日目。朝イチでトイレに行ったら、またオリモノシートに出血が… 前の2回より量は少なく、5ccくらいか。色は茶色に近い薄い赤。
うあーまたか、もう勘弁して…と意気消沈しつつ、朝の身支度をしながら食べ物を口に入れる。つわり的な症状が徐々に強くなってきていて、空腹でも満腹でも気分が悪くなるので、ハイご飯ですよと言って普通の量を一度に食べられなくなってきた。
今朝も、起きた瞬間にまずミカンを半分食べ、トイレに行き、残りのミカンを食べ、ベースメイクをしてヨーグルトを半分、メイクを仕上げて残りのヨーグルトを食べ、服を着替えてから小さなおにぎりを3つ握って、そのうちの1つをまず一口。という具合に、とにかく細切れに食べ物を胃に送り込む。
ここ数日この戦法で乗り切っていたので、ヨシ今日も行ける、と思っていつもの時間に家を出た。お腹も適度に満たされて駅までは快調だったのに、電車に揺られること20分。にわかに気分が悪くなり、途中駅で飛び降りて、ホームの隅で嘔吐した。ついに嘔吐! ザ・つわり。
すみませんすみません、通勤中の皆さんお見苦しいところを見せてすみません、駅員さん掃除の手間を増やして本当に申し訳ありません、トイレまで我慢できなくてごめんなさい、でもマタニティマークまだないけどコレつわりなんです、ほんとです、断じて二日酔いとかじゃないんです…と心の中で唱えながら、せっかく細切れにせっせと詰め込んだ朝ごはんを全て吐き出してしまった。ああぁ…(´Д` )
気分を落ち着けて電車に乗り直し、出社後はウィダーインゼリーを10秒チャージどころか1時間かけてちびちびとチャージ。
ランチは薄味の讃岐うどんを1本ずつ慎重にチュルチュル流し込み、午後はまたウィダーインゼリーを傍らに置いて会議。夕方、本格的に小腹が空いた頃を見計らって持参した小型おにぎりを一口ずつ嚥下。帰宅して納豆ご飯とうっすーい味噌汁で晩御飯。
不思議なことに、好きだった甘いものがさほど欲しくなくなり、かといってしょっぱいものもあまり受け付けず、できるだけ薄味を求めるようになってきた。少しでも塩からいなと感じると、水をガブガブ飲むように。ミカンや巨峰などの果物は、気分が悪くても食べやすい。
こうやって、少しずつつわりが本格化しているということは、お腹の中の人は順調に育っているのだと思いたい。というか、そう思わないとやっとられん。わーつわりだ嬉しいな、と声に出してみたりして、気の持ちようで何とか乗り切れないかなとか、いろいろ試行錯誤の毎日。
BT25日目 分娩予約(仮)
【体外26周期目・移植周期D49】未計測
妊娠継続していれば、本日6週2日。で、コメントでもいただいたのだが、ここ数日のうちに産院を考え始めていた。
候補は3つ。自宅から近い順に、無痛分娩で有名なクリニック、産科のある総合病院、周産期医療専門の有名病院。
で、毎日のんきにしている暇そうなオットにこの中から分娩する病院を選んで欲しいと依頼してみた。
オットが選んだのは2つ目の総合病院。自宅から徒歩15分、NICUこそないものの産科の評判は上々で、わたしも何となくそこが良いかなと思っていたので、とりあえず分娩予約について問い合わせてみることに。
週末に問い合わせたところ、電話に出た助産師さんが丁寧に教えてくれた。
電話では予約できないのでまずは初診に来てほしい、ただ混み合っているのと先生の診察次第なので予約可否は何とも言えない、とにかく早めに来てください、と。
不妊治療をしていて、クリニックをまだ卒業していないことを伝えたら、紹介状がなくても初診は可能です、と言ったうえで出産予定日を聞いてくれて、今のところはまだ空きがありますが、この先は何ともお約束できないので、と言われてしまった。
なんと、そんなこと言われると焦るじゃないか!
しかし正直、まだ心拍も見えずにどうなるかわからない中で、ノコノコ産科になんて行っても無駄に終わったりしたら悲しすぎる、と躊躇していたのが金曜くらい。
土曜は一日中仕事で、ややつわりがひどくなり、体力も消耗してヘロヘロになっていたら、なんと翌日曜つまり昨日の朝に、またもや10〜20ccほどの赤茶の出血があった。ひーー((((;゚Д゚)))))))
前回同様、一度出ただけで止まりはしたものの、不安に拍車がかかる。昨日は昼過ぎに、仕事でとてもお世話になった方の退職のお別れ会があり、どうしても直接お会いしてご挨拶したかったので、腹にカイロを仕込んでソロソロと忍び足のように気を遣いながら外出。幸い体調もさほど悪くならず、散会後さっさと帰って横になった。
が、軽くお腹を壊したような痛みが何度かあったことや、二度目の出血の心配もあいまって、もうこうなったら一度さっさと産科に診てもらったらいいんじゃないか、と思い直した。
早速の本日月曜。もともと土曜出勤分の調整で午前休を取っていたので、朝イチで目当ての産科へ。
まず採尿と血圧・体重の測定。血圧は、上が125もあって度肝を抜かれる。わたしの平常時の血圧はほとんど100に届かないのに。これも妊娠中だからか。
続いて医師の問診。愛想のない、いかにもお医者様という感じの先生だった。
先生「不妊治療って何したの」
オマル「顕微授精です」
先生「最終月経は…9月8日、で6w6dくらいか」
オマル「あの移植が10月1日…」
先生「紹介状がないうちは、あくまで最終月経から数えるんでね。で、妊娠は初めて?」
オマル「あそうなんですか。はい初めてです」
先生「出血はないですか」
オマル「昨日朝少し出血しました」
先生「色は。赤?茶色?」
オマル「その中間くらいで」
先生「つまり生理の時のような血ね」
オマル「そうです」
先生「腹痛は」
オマル「軽い痛みがたまに」
という感じの、超早口一問一答式。つられてこちらも早口になる。つわりの有無、体重の増減、婦人科や他の既往を聞かれて、検診と分娩をこの病院で希望していることを確認されて、いったん終了。また少し待って、内診に呼ばれた。
内診は、触診と経膣エコー。し、触診…と構える暇もなく、サクッと終了。
超音波では、相変わらず横長楕円の胎嚢が見えた。サイズを測られたようだけど、数字はわからず。で、胎嚢の右上あたりに、白いものが見える。あ、あれはまさか…
「この、丸いのが卵黄嚢と言って、赤ちゃんの栄養になる部分ね」と先生。
キター、卵黄嚢! てことは、その横の白い出っぱりが胎芽か?と思ったけど、先生は無言。代わりに、
「体外授精だよね、いくつ戻しました?」
と聞かれた。一つです、と答えると、「そうか、じゃあこれは違うか…」とひとりごとのようなつぶやき。な、何ー!? 双子疑惑!? まあでも違ったようだ。
心拍はまだですね、次見えればいいでしょう、と言われて終了。また少し待たされて、再度お話。
先生「2週間後に来てください。で、紹介状をもらえるのは心拍が見えてからかな? 胎嚢が見えたら紹介状を出すところがほとんどだと思うけど」
オマル「(えっそーなの?)心拍見えて、ホルモンが安定してからだと思います」
先生「ふうん、そこまで責任持って見てくれるということね、じゃあ、もしこの2週間の間で流産になったりした場合は、まあどちらに連絡してもらってもいいけど、うちに連絡もらってもちゃんと対応しますから」
オマル「ありがとうございます。あのう、それは流産の可能性がありそうということですか」
先生「わかんない!」
ひゃーキッパリ。
先生「それは今の段階では誰にも何とも言えないの。今すぐどうこうという所見ではないですけどね」
ああ、わかんないというのは、神のみぞ知るということか。今すぐどうこうという所見ではない、と言われて逆に安心する。少なくとも現段階で、お医者様の目から見て不審なところはあまりないのだろうということ。
先生「まあ、ですから2週間後でいいと思いますよ、その時にできれば紹介状持ってきて」
で終了。そんな上手いこと京野から紹介状をゲットできるのだろうか。ひとまず、今週末そちらのクリニックに行くので相談してみますと言って、2週間後の予約をとって診察室を出た。助産師さんの指示で、分娩の仮予約を入れる用紙を記入して終了。2回目の診察で問題なければ、本予約になるらしい。
待合室はけっこう混み合っている。聞いたところ、予約制だけど平日でも2時間くらいかかるらしい。朝イチに来て、お会計終わるまで確かに2時間弱。なるべく早い時間の予約を取るようにしないと大変だわ。
結局、心拍はまた見えずじまいだったけど、とりあえず卵黄嚢が確認できて一歩前進。先生もわからん!と言ってたし、あまり不安になりすぎずに心拍確認を待とうと思う。