『松田聖子論』、母と娘、女であること
【体外1周期目D18】36.57
D18だけど体温上がらず。高温期への移行中か。
仕事が忙しい。その合間を縫うように、本を2冊読んだ(最近はiPhoneで専ら電子書籍)。
北原みのり『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』と、小倉千加子『増補版 松田聖子論』。
- 作者: 北原みのり
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2012/04/27
- メディア: 単行本
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もともと北原みのりのアダルトグッズショップ、ラブピースクラブのサイトのコラムも愛読していたし、小倉千加子の著作は何冊も家にある。しばらく触れていなかったのは、フェミニズムの言説に共感しつつも、「普通に」結婚してしまったことに、転びキリシタン的な後ろめたさがあったのかも(もちろん冗談。数パーセントは真実)。
木嶋佳苗の不可解さのなかでも、驚いたのは中学から高校時代の彼女が、松田聖子と並んで小倉千加子を好きだと何かに書いていたらしいこと。何という早熟。いまの高校生で、小倉千加子を読んでいる子がどれだけいるだろう。
で、件の『松田聖子論』を読んでみた。これまで未読だったことを激しく後悔。鋭い洞察と鮮やかな表現にしばし没頭した。
印象に残ったことが2つ。1つめは、母と娘の関係性について。
わたしはどちらかといえば、自分の人格形成において、母よりは父の影響が大きかったのではないかと思っている。いわゆる、「父の娘」というやつなのか。リベラル、というよりもはっきりと左翼であった父は、長女であるわたしに女の子としての可愛らしさよりも、知性を求めた。厳格なわけでも抑圧的なわけでも全くなかったので、別に深刻なハナシじゃないのだけど、わたしにとっては長いこと、母よりも父に認められることのほうが大切だった。
一方で、前にも書いたけども、50そこそこで死んだ母はわたしに、結婚はせずとも子どもは産めと言い残した。
---以下引用---
母と娘のあらゆる対立は、たった一言で表現できます。それは娘の「捨てたい」欲求と、母の「捨てるな」命令の葛藤です。
(小倉千加子『増補版松田聖子論』)
---
これを読んで、ああ、あの言葉は、母の呪いだったのだなあと気づいた。母が死んでもなお、わたしの意思決定に影響を与えるという意味での「呪い」。
母は、リベラルな父と結婚し自分のことも進歩的な女性と思っていただろうけれども、根っこは田舎の封建的な農家で育った昔ながらの日本の女だった。その母が、娘のことを思って「母と同じようにおまえも母になれ」と言い残したのだ。厳しくしつけ、叱り、身持ちの堅い娘に育てあげておいて、手の平を返したように、結婚しろ子どもを産めという。娘に自分と同じ道を辿らせようと善導する母。
そうだったのか、といろいろなことが繋がった感覚だった。わたしは、母の言葉に導かれて、母のようになろうとしている。そう気づくと不本意な気もするけれども、たぶんそうなのだ。なぜあんなに母の言葉が気になっていたのか、その理由が少しわかり、そう理解することで、子どもが欲しいかどうかについてこれまでよりも客観的に考えられるような気がした。
印象に残ったことのもう1つは、山口百恵と松田聖子の、女としてのあり方の違いだ。
山口百恵は、「あなたに女の子の一番大切なものをあげ」、見知らぬ女に嫉妬し、捨てられて未練に泣き、そうこうしながら結婚して母と同じように母になっていく日本の女の象徴だった。一方で松田聖子は、風が吹く浜辺や高原で「気の弱い彼」と恋の駆け引きを楽しみ、フラれてもすぐに吹っ切って旅立つ女で、その圧倒的な湿度の低さが特徴。そして、聖子の世界にセックスシーンは一切描かれない。
この分析に触発されたのか、わたしは読みながら途中から少し違うことを考えていた。
端的にいえば、セックスをした瞬間にきっと恋愛関係は終わるのだと思った。逆にいえば、セックスをしないことこそが恋愛なのかもしれないとすら思った。
わたしはオットを好きだけれども、恋愛感情を抱いているかというときっともうそんなものはない(それはあちら様もそうであろう)。これまた顰蹙買うだろうだが、既婚者が恋をしたいと思うのはある意味当然なのかもしれない。セックスとそれに付随するあらゆる面倒なもの、別れ、嫉妬、子ども、家族…そういう面倒を伴わない、対等な人間同士の軽やかで浮ついた関係性を欲しているのだと思う。
そんなことを考えていたら、偶然なのか願望なのか、久しぶりにある男性にときめきを感じた週の後半。50手前の、タイヘンに頭の切れる、茶目っ気のある、たぶん少しシャイな男性。ここ半年くらいずっと仕事で接点があったのに、正直つい先週まで何の感情も抱いていなかった。そもそもこんなふわっふわした感覚は、かれこれ3年ぶりだ。
まあ、だからどうということはないのだけれど、子どもだの家族だのとそんなことばかり真面目に考えているよりも、わたしにはこのときめきのほうがよほど大事なことに思えて、なんだか嬉しかった。