不妊治療diary

36歳・結婚4年目のオマルが綴る、男性不妊と、働きながらの子づくりにまつわるよしなしごと

不妊治療を振り返る その2 仕事のこと

8w2d、本日2本目のエントリ。

今日は産科の2回目の受診日だった。京野の紹介状を持って行き、出産予定日は6月中旬に確定。

初診でもお世話になった恐ろしく愛想のない担当医が、エコーを操作しながら、

「はい元気に心臓動いてますね。たぶんこれが足で、これが手でしょう。ここが心臓ね。赤ちゃんはじっとしてるね。爆睡中かな。おーい、お母さんに動いて見せてごらん?…うん、動かないね。マイペースな子ですね。ピンピン動いてるところが見られる時と、こんな風にじっとしてるときがあります。あ、今少し動いたかな」

とやたらと饒舌に赤ちゃんの様子を解説してくれて、赤ちゃんよりも先生のおしゃべりにちょっと度肝を抜かれた。

意外と子ども好き? ツンデレ的な?(失礼)先生の素敵な一面が見られてほくほく。

頭臀長は15ミリほどらしく、「少し小さいな、ARTだしな」という先生のつぶやきが聞こえた。エコーが終わり、写真をもらって終了。「これだけ心臓がしっかり動いていればまあいいでしょう」とのこと。ちなみにエコーの時に、初めて実際の心音も聞かせてもらったけど、驚きすぎて音自体はよく覚えてない。ただ、本当に心臓が動いてるんだわねーと今更ながら実感した。

病院帰りに母子手帳をもらいに行ってきた。じわじわと、妊婦感が増してくる。このまま無事に出産までこぎつけることを、毎日毎日ただ祈るばかり。

さて、ここまでの不妊治療を振り返って、仕事について考えたことを整理してみたい。


先日、仕事でお世話になった大先輩の3年目の命日を前に、同僚や先輩とお墓参りをした。先輩が亡くなって3年。その3年が、わたしの不妊治療の3年でもあり、仕事の状況が大きく変わった3年でもあった。

3年前のわたしは、結婚して一息ついて、次は子どもだなと何の疑問もなく思っていた。年齢的に余裕はなかったし、当時は今の仕事にあまり思い入れもなかった上に、上司や職場は今よりも過酷で、立て続けに人が辞めていっている状況だった。

働くことはずっと好きで、一生働くつもりではいたものの、今の会社にずっといるかどうかはわからないと思っていた。さっさと産休育休をとってその状態から逃げるか、もしくは転職でもしようか…と漠然と考えていた。実は今の仕事に全く関係のない資格を取ろうかと急に思い立ち、一時期勉強したりもしていた。

つまり33から34になる頃、わたしのキャリアイメージはとてもふわふわとして曖昧なままだった。

そのままの状態で不妊治療を開始したものの、なかなか授かる気配はない。1年経って35になった頃、これは一生子どもができないという可能性も考えた方がいい、と思い始めた。そうなって初めて、わたしはこの先仕事をどうしていくんだろう、と改めて考え出した。

思い返せば、20代の時には結婚も出産もしないかもしれないと思っていたし、一人でもそれなりに楽しく生きていけるような仕事を模索しようという気概があった気がする。前向きに転職を重ねたし、貪欲に学びもした。それが、結婚したとたんに「仕事がしんどければ産休をとればいい」と逃げの思考になっていたことに気づいた。出産しようがしまいが、働き続けるつもりであれば真剣に仕事に向き合え、と自分に課したのが、不妊治療2年目の2014年。

それまでのわたしは、どこかで余力を残すような仕事の仕方をしていた。100必要なら100の成果を納めればよくて、120を目指すことはなかったし、それで十分だった。でもどこかで、自分は力を出し惜しんでいる、全力を出せないのは致命的な弱みだ、と感じてもいた。

2014年の年始のブログを読み返すと、抱負として「謙虚に仕事する。多少文句は言っても、真摯に仕事に向き合う。力をだし惜しまない」と綴っている。そして、その年末にはその抱負は達成された、と振り返っている。

この年の仕事を思い返すと、年明けから3月頃まではあるプロジェクトの完成度を上げるために後輩ちゃんと怒涛のプロジェクト進行。3月からゴールデンウイークまでは、手持ちで最大のプロジェクトが難航し、他人の担当領域に思い切って首を突っ込んで大幅な軌道修正をかける、という荒技を発動した。それまで人の仕事に口を出さなかったわたしが、何かを吹っ切って100から120を目指した瞬間かもしれない。夏から年末までは、その大規模プロジェクトでの地味な山場が続いた。1つ1つはものすごく些末な、だけど積み上げると全体のクオリティを決めるようなテーマについて、地道に潰していく日々。その合間に、年明けに後輩ちゃんと仕上げたプロジェクトが全社表彰されたり、昇格したりと、思いがけず評価もされた1年だった。

いま改めて思い返すと、この本厄の1年間に仕事に全力投球したことは、わたしにとって大きな転換点だったと思う。いくつかの象徴的な仕事をしたことで、社内でのわたしの立ち位置、期待されることが明確になった。今年に入って、最大のプロジェクトを無事終えたことで、その立ち位置はさらに磐石になったかもしれない。

3年前に亡くなった先輩が築いた専門領域で、それを受け継ぎ発展させていくことが、わたしがこの会社でやるべきことだと今ははっきり思えている。

蛇足だけどこの3年で3回も昇格できたのも、今になって思えば良かったんだろう。出産手当金や育児休業給付金など、各種手当ての基礎額が上がり、復帰後に時短勤務になったとしてもある程度の収入を確保できるだけの基礎給与がある。お金は、不妊治療をするにも出産・育児をするにも本当に大事なものだ。

振り返って嬉しいのは、たとえ子どもができない人生だったとしても、この3年間の仕事が自分にとって本当に必要だったと思えること。わたしは趣味らしい趣味もなく、仕事が趣味みたいなもので、だとすると子どもがいてもいなくても、仕事に打ち込んだ時間というのは今後のキャリアにとってとても大きな意味を持つ。

もちろん、早く産めるならそれにこしたことはないと思う。こういう納得の仕方は、自分のために後付けでするものなのかもしれない。それでも、わたしにとっては3年待つ意味が確かにあった、と思うのは間違いじゃない。3年前に産めていればそれはそれで良かった。でも今妊娠できたことにも、意味はある。


とりとめもなくなってきたので、このあたりでこのブログは一度おしまい、というか無期限のお休みとしたい。もしもこの妊娠が出産に至らなかったら、または、上手くいって少し先に2人目の凍結卵を迎えに行くことになったら、その時はまたこちらで再開するかもしれない。

最後に、こんなひとりよがりブログを読んでくださった皆様、コメントをくださった方々に、心からお礼を申し上げます。

赤ちゃんを待っている全ての方が、困難な中でも自分らしさを失わずに生き生きといられること、ご夫婦の納得のいく不妊治療が受けられることを願っています。