結婚の才能
【体外1周期目D28】36.71
高温期のわりに中途半端な体温が続いている。クーラーかけて寝てるから、冷えてるのだろうか。
先日読んだ『増補版松田聖子論』に続いて、久々に小倉千加子祭り。『結婚の才能』を読んだ。
- 作者: 小倉千加子
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2010/04/20
- メディア: 単行本
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負け犬論争の端緒となった(ていうかどこが論争?って感じだったが)AERAの酒井順子・小倉千加子対談(2004年)をリアルタイムで読み、『結婚の条件』も当時貪るように読んだけれども、それからまた月日が流れた。この『結婚の才能』は、2008年以降の雑誌連載をまとめたもの。
小倉千加子の文章は端的で鋭くてあちこちにぐさぐさと突き刺さる。「結婚の才能とは、◯◯である」と、幾通りものアイロニカルな(でもおっしゃる通り…という)定義が示される。
---以下引用---
結婚を先延ばしにしたり、結婚できなかったりする人がいる時代には、結婚していることが相対的な幸福の証となり、絶対的な幸福感がそこにあるか否かを吟味することへの抑制が働く。
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何のために結婚するのか。結婚っていったい何なのか。わたし自身、子どもができないかもしれないとわかった時、「それでは結婚した意味がない」という思いが一瞬よぎったことを思い出した。自覚しないようにしてたけど、確かに一瞬でも頭をかすめたことを認めざるをえなくて、呆然とした。
子どもなんていなくても、とあっさり言い放ったオットのほうが、よほど結婚を自分なりに意味づけているのかもしれない。
昨日、学生の頃からの友人とランチをして、男性不妊が判明したことを話したら、突如横浜の街中で彼女の方が泣き出してしまった。
彼女も、結婚してだいぶ経つけれども子どもはいない。同じくゼミの友人である彼女の夫がEDで、子どもをつくることができないと聞いていた。子どもができなければ結婚した意味がないなんて、そんなことはあるわけないと、心の底からわかっているのに、反射的に、子どもができないことを不幸だと感じてしまう何かが、わたしにも彼女にもあるのだろう。本当に不本意だけど、そうなのだろう。
わたしたちはいつも、何かを選んで生きてきた。だから正確には、子どもができないことそのものではなく、子どもを持つことを選べないことを理不尽に感じるのだと思う。結婚も出産も、選択であると同時に、選択してしまったらそれより前には戻れないという意味で、自分が持っていた選択の自由を諦めていく行為なんだと思う。
結婚するのかしないのか。子どもを産むのか産まないのか。仕事をするのかしないのか。女性がいつまでも「選べる」状態でいたいことが、晩婚化、高齢出産の増加につながっているということだ。結婚の才能とは、選ぶことを諦めることだ。
結婚も出産も、自分が主体的に意味づけなければ、たぶんいつまでも迷い続けてしまう。わたしは、選ぶことを諦めることができるんだろうか。迷いなく子どもを産むことを、迷いなく子どもを産まないことを決められるんだろうか。