不妊治療diary

36歳・結婚4年目のオマルが綴る、男性不妊と、働きながらの子づくりにまつわるよしなしごと

想像力と5年後のわたし

【体外11周期目・採卵周期D7】未計測

なんだか最近、寝ぼけて体温計くわえるもんだから、そのまま二度寝して上手く測れなかった、って現象が多い。そういうわけで、本日も未計測。

体温調節がうまくいっていないのか、低温期にしては高めの体温が続いている。

本日は、土曜の出勤分の代休を取得して1日自宅でゴロゴロ。暇つぶしにネットを見ていて、ぼけーっと考えごとをしてしまった。

さっきネットで見かけたのは、「5年以上不妊治療をしても子どもを授からない。子どもを授かれないなんて、女として最大の欠陥で、自分のような女と結婚させて大金を使わせてしまって夫に申し訳がない、離婚したい。離婚が無理ならせめてこれまでの治療費を夫に返済したい」みたいな相談。

読んでみると、この方の旦那さんは「子どものために結婚したわけじゃないし、そんなこと言うな」と言っているそうなのだが、この方本人がそれでは納得しない様子。

ネット上では、旦那さんはそう言ってくれているんだから、とか、あなたの考え方は悲しい、みたいな指摘がされていて、まあそうだよねうん、と読みながら、これはなんなんだろうなぁ…と考えてしまった。

ご本人は5年以上も治療をしてその度に打ちひしがれて、本当に辛い思いをされているのだと思う。自分を責めずにいられない、旦那さんから責められた方が却って気が楽だと思うような精神状態なのかもしれない。精神的に追い詰められているせいで、自分自身を大事に思って肯定するっていう、誰でも持ってるはずの機能が正常に働いていない可能性もある。どうか時間をかけて少しずつ心を癒していってほしいものだな、と願うばかり。

一方で、考えさせられたのは、どんな人の心の中にもあるのかもしれない、根深い価値観について。

この方が旦那さんに対して感じる「申し訳ない、離婚してほしい」という気持ちの背景には、「産めない女は欠陥品である」という前提がある。

こんな考え方は、今時誰も表立っては口にしない。匿名掲示板なんかではよく見かける(石女、とかね)けど、少なくとも世間的にはまあ、時代錯誤も甚だしい考え方だとされているはず。

それで、こういう考え方や言説が、どういう構造になっているのかを考えてみた。

まず、

A「女は子どもを産むことが最大の仕事」
B「結婚は子どもを産み育てるための制度」

という根本的な前提があるのかな、と思う。ここへ、

C「出産にはある程度タイムリミットがある」

という科学的な前提が加わる。
結果として

D「だから早く結婚して子どもを産むべき」
E「若い時好き放題やって後で産みたいなんて勝手」

みたいな言説が生まれる。先日わたしが怒り狂ってた例の都議会のヤジは、まさにこの種の言説だったわけだ。件の、名乗り出た議員の思考の前提には、こういう回路があったのだなと思う。前回のエントリーに書いた「結婚して子どもができて一人前」発言の後輩男子なども同様。

他方、前述の「離婚したい、せめてお金を返したい」という彼女の主張は、

F「子どもを産めないなら離婚すべきである」。

なぜなら、夫は子どもがすごく好きだから、といった事情もありながら、結局のところ

B「結婚は子どもを産み育てるためのもの」
A「女は子どもを産むことが最大の仕事」

という大前提が、この人の中にもあるのだな。つまり、あのヤジを飛ばした議員も、この離婚したいという人も、同じ前提に支配されているということ。

A・Bのどちらも、当然ながら視野の狭い前提ではあるのだ。だけど頭でわかっていても、私自身知らず知らずのうちにこの前提に支配されてしまったりもする。そういう怖さがある。

例えば、うちのオットは全くもって自分の乏精子症に何の引け目も感じていないのだけど、そのあまりにのほほん、とした様子を見ていると、つい「ちょっとは自分のせいだと自覚してわたしに気を遣えよ(−_−#)」という気持ちになる。

これは、「不妊の原因がある方がない方に対して申し訳なく思うべき」みたいに無意識にわたしが考えてしまうせいで、その前提になっているのは、A・Bなんだな。男女逆なだけで。

だから、もし前述の離婚したいという女性が、男性因子の不妊だったらどうなっていたんだろう、と思ったりする。やっぱり「種無しなんて男として不良品だから離婚」となるのだろうか。それとも、

A’ 「男の最大の仕事は子どもを産む(作る)ことではない」

なんて前提があるとすれば、離婚にはならないのか。だとしたら、その場合男の最大の仕事ってなんなんだろう。外で仕事して稼いでくること、だろうか。このあたりは、男女平等に関する前提になってくる。

こうやって、世間によくある言説を分解していくと、どの辺りで食い違いやイザコザが生じるのかが、だんだんわかってくる。

無意識にA・BやA’などの前提を持っている人と、少なくともその前提の存在に気付いている人とで、言動は違ってくるのだろうと思う。そして、その前提に気づくかどうかは、その前提に反するような状況を想像できるかどうか、つまり想像力にかかっている。

たぶん学問的には当たり前の話で、

A「女は子どもを産むことが最大の仕事」
B「結婚は子どもを産み育てるための制度」

という命題がある場合、学問の、というか科学的な態度というのは「本当にそうなのか?」を検証するところにある。

そして、現代社会においては、A・Bともに「そうは言えない」という結論が世界的には通説となってもいる。日本でも当然、Aについては職業選択の自由として、Bについては家族生活における個人の尊厳と両性の平等として、法律にも明記されているわけだ。

この、「本当にそうなのか?」と考えられるかどうかが大事だと、ここまで書いてきて改めて感じた。何でもそうなんだと思うけど、仕事してても「前提を疑え」なんてのはよく言われることでもある。

例えばわたしは、もともと20代では結婚も全く考えてなかったし、こうやって不妊治療をすることになったりもしたし、

A「女は子どもを産むことが最大の仕事」
B「結婚は子どもを産み育てるための制度」

という前提を疑うことができる機会が、たくさんあったのだと思う。自分でなくても、周りにそういう知り合いがいれば、十分想像できることだと思う。

たまたまA・Bを疑う機会なく生きて来られた人は、きっとある意味幸せな人なんだが、「本当にそうなのか?」と疑うきっかけがあれば、考え方も変わるかもしれない。

想像力って書き方をしたけど、ほんとはもっと簡単な想像力もあって、それは「もしこれが自分だったら」と思えるかどうかってことなんだろうと思う。

先日のヤジ騒動でわたしの友人が、「でもあの女性議員も、言われてもしょうがない経歴じゃない?」とFacebookでコメントしてたけども、こういう人はたぶん、「いじめられる方も悪い」理論の人で、自分が同じ目に遭う可能性を想像しないんだろうなと思う。

いずれにしても、わたしはやっぱり想像力をきちんと働かせることができる人にならねば、と思う。

昨年の大晦日に決めた「5年後の抱負」ではこんなことを書いていた。

「子どもがいてもいなくても、子どもがいる人に対してもいない人に対しても優しい気持ちで接することができる大人でありたい。多様なライフスタイルを選択する自由があることを喜び、自分が選んだものも他人が選んだものも同様に素晴らしいと思える状態でいたい。」

そのために、世の中でや身の回りで起こることに敏感になって、「本当にそうなのか?」と考えたり、他人の立場に立ってみたりするってことが必要なんだと思った、ある休みの午後でした。